へら鮒釣り日記


へら鮒



 これは、私が関東一円を舞台に、25年間にも及んで夢中で追い駆けまわした「へら鮒」釣りを纏めたものです。へら鮒釣りは、部外者から見るとマニアックなものと捉えられ勝ちですが、
面白いが故に夢中になられる方が多いだけの事です。
 文中、専門用語がポンポン出てきますが、注釈を付けておきますのでご判読ください。

 
                    私が夢にまで見た、へら鮒の「魚拓」です

へら鮒は、琵琶湖にいたゲンゴロウブナとギンブナを交配して作られたといわれる淡水魚です。それが何時頃かは定かではありませんが、関西方面から始まった放流が、全国の河川湖沼へと広まって「へら鮒釣り」を趣味とする人々が生まれました。
1964年(昭和39)に、「日本へら鮒研究会」に「養魚放流部」が出来本格的な放流事業がスタートしたようです。

皆さんご存知のマブナは動物質の物を主として食べる雑食性ですが、対してヘラブナは、植物性のプランクトン等を主に食べて生息する魚です。共に釣の対象魚として皆さんに親しまれていますが、マブナが底付近を生息域にしてるのに対し、ヘラブナは中層を回遊しながら採餌していますので、同じ鮒でありながら釣り方も餌もが自ずから違うものになっています。昔から釣は「鮒に始まって鮒に終わる」と言われていますが、私は経験から「マブナに始まってヘラブナに終わる」と言った方が当たっていると思います。マブナは、ミミズを釣鈎(ハリ)につけて放り込んでおけば勝手に?釣れてくる魚ですが、ヘラブナはそれでは釣れないところに、創意工夫が生まれ、ついには面白味を見出し「趣味」として発展し現在に至っているものと思われます。

釣りのスタイルは、個人で、静かにのんびりと楽しむ方は勿論いますが、殆どの方が、「日本へら鮒釣り研究会」を代表する「〇〇へら鮒研究会」とか「〇〇〇へら研クラブ」と称した会に所属して、グループで行動し、初釣り、月例、季、納会と節毎の「競技会」や、全国に在る各釣り場等で行われる「釣り大会」に参加して、その腕を競って楽しんでいらっしゃいます。
競技方法は「全重量」が殆どですが、釣り場によっては、「型・カタ」と言って一枚(一匹)の全長
(唇から尾びれの先端迄)で競う競技会もあります。何れもが、トロフィー、カップ、楯の他に賞品が懸けられていますので皆さん懸命です。

へら鮒釣りは、釣る事を楽しむものですから、釣ったら放すが大原則ですが、「釣堀」「管理釣り場」等の競技会等ではフラシ(筒状の網)に確保しておいて、終了時に検量します。この場合は、一(ひと)フラシに入れる匹数を制限したり、途中で検量しては放流して、「へら鮒」を傷めないための配慮をしたりしています。「野釣り」の場合は殆どの釣師が、フラシを使っていますが「へら」を傷めないようにと配慮なさっていることは言うまでもありません。

        
                        良型が揃いました。 網はフラシです。

へら鮒はその名が示すように平べったい魚ですので、平が訛って「へら」になったというのが大方の見方のようです。姿、形が大変美しく、養殖池で育ったものは銀色に輝いて目にも楽しい魚ですが、匂いがきつく、沢山釣り過ぎるとその匂いが身体に付いて家人の顰蹙を買うという難点もあります。サイズは、マブナが30cm(尺)止まりなのに対して、過去の記録に68cmがあると聞いています。マブナと違って成長が早いため、養殖には向いているものと思われ、大阪河内、奈良辺りで盛んに行われているようです。

と言う事で、現在は余程大きな河川、湖沼でない限り、自然繁殖のへら鮒は居ないだろうと言われるほど、養殖ベラが定着しています。
 但し、何時の頃からかマブナとの交雑種が現れ、釣師の間では「半ベラ」(関東)「合いべら」(関西)と呼ばれて折角釣ったのにと悔しがらせてくれてもいます。

私がへら鮒釣りを始めた切っ掛けは、妻の父に誘われて行ったのが最初ですが、その時に全く釣れないという屈辱を味わって、持ち前の「なにくそ魂」に火が着いてしまったところから始まりました。以来25年、体力に限界を感じて「止めたッ!」宣言をするまでを只ひたすらに「へら釣り道」に励み、妻子の顰蹙もものともせず、門外漢からは「バカバカしいッ!」と言われようとも、へら鮒釣りの「道」をひとり「楽」しんだものでした。

私が始めた昭和45年頃は、未だ竹竿しか無く、餌も「さつま芋」を蒸して裏漉しをしたものに小麦粉を混ぜて使ったものですが、釣行前夜に用意して早暁出発ですので、夏などは暑さで饐(す)えてしまって使えず、餌切れで早上がり、なんてことが度々でした。その後は、マッシュポテトが出て身近なものになったことから、釣仲間の口伝で広まっていきましたが、粘りがなく、鈎(ハリ)に塊として着けておく工夫に明け暮れたものでした。がしかし、世の中にはお利巧さんがいらっしゃいます、とろろ昆布や、小麦に含まれる「グルテン」を混ぜることを「発明」なさったのを機に、「へら餌」の一大革命が始まり、丁度同じ頃使われだした「焼麩」を砕いたものと相俟って、へら鮒の受難時代がスタートしたものでした。

一方、肝心の釣竿も、化学繊維製の物が出てきて、竹竿に勝るとも劣らない優れ物が手頃な値段で手に入るようになり、益々へら釣り愛好者を増やしていきました。現在ではカーボン製が主流で、各メーカーが鎬を削って研究開発してくれたお陰で、竹では得られなかった長さと軽さに各種の「調子」を自分に合わせて取り揃えることが出来ています。

余談ですが、「鮎の友釣り」でも同じ事が言え、竹竿時代には決して見られなかった「抜き取り」 が行われています。竹竿と違って、軽いがために片手で扱え、浮かせたら一気に抜き上げて、 空中を飛ばして左手に持ったタモに収めるというスタイルがいつの間にか定着しています。
  (テレビの釣番組によく登場しますので、ご覧下さい)


へら鮒釣では、へらを鈎に掛けてから手元へ取り込むのに、決して水面から抜き上げると言う事をしません。逃走を図ろうと必死にもがくのを、竿を持つ腕を伸ばし真っ直ぐに立てた状態で、竿の弾力を巧く利用しながら手元まで水中を泳がせて寄せてきます。取り込みはタモ(手網)の中に入れますが、へらを手で掴むことは決してしません、鈎を指先で摘まんで口から外して 釣った!となります。
釣っては放流を繰り返すへら鮒釣では、「魚体を傷めない」が大原則で、何方もがこの暗黙のルールを守って「釣る事」を楽しんでいらっしゃいます。

その他に、「道糸」と「浮木・ウキ」があります。前者は、切れず、伸びず、癖がつかず、水を含まず、と何拍子も揃ったフロロカーボン製が出て、冬期の繊細な釣りにも驚くほど細い糸が使えるようになりました。
「ウキ」は、ほぼ変化無く推移していますが、夜釣り用の「電気ウキ」だけは、極小の電池が開発されて昼間と同じ感覚で出来るようになりました。お陰で夜釣りを快適に楽しむことができました。

         
                    へら鮒釣り用バランスウキの数々

その発展した釣道具一式は、竿、竿受け、バランスウキ、手網、道糸(テグス、ハリス)、鈎、等の小道具一式、椅子、帽子、サングラス(偏光レンズ)、パラソル、これらを入れるバッグとあって、その他に、釣台、カッパ、防寒着も必需品ですが、一式を一度に揃えると、軽く30万円は必要かと思います。特に竿は、へら鮒釣用の2.4mから5.4mぐらいまでを計5本は揃えたいものですが、竹竿は超高級品となりましたので、その「道」を「楽」しむ人のみがお遣いになったり、芸術品としての価値を見出して収集なさっている方もいらっしゃるようです。
私はと言いますと、卒業時にはフロロカーボン製を、計12本使っていました。

  
                私が愛用していた、へら竿 手前から 丈八・丈五・丈一

先ずへら鮒釣りには、河川湖沼で釣る「野釣り」と、養殖べらを放流し管理下において釣らせる
「釣り堀」「管理釣り場」があります。野釣りといっても、漁業権を持つ地元の漁協が順次放流をしていますので、純粋の「野べら」は皆無でしょうが、長生きをして、「地べら化」したものは大きく育って釣師を楽しませてくれますが、「入漁料」は徴収されます。一方「管理釣り場」は、「釣り堀」と河川湖沼の全体か、一部分を網等で隔離した処へ大量のへら鮒を放流して、楽しませてくれるものです。勿論、有料です。魚影が濃く足場も安定していますので、お子さんや女性釣師の姿をよく見かけるようになりました。

ここまででもうお気付きのことと思いますが、今のへら鮒釣りは、ゲームです。餌の調整、タナ(泳層)とりの微妙さ、アタリ(魚信)のタイミング、取り込みなどすべて微妙且つ絶妙なテクニックを要求される日本独特の、釣る事を楽しむゲームフィッシングです。
ですから釣ったそばから放すか、最後に計量、計測をして全てを放流して帰ってきます。ここが他の釣りとは違うところで、お土産は「匂い」だけとなります。こんなところから、家人に「何処で何遣ってんだか、今頃はきっと「陸(おか)釣り」に夢中じゃないの」などと、在らぬ疑いをかけられたりした人が居た、と噂に聞いた事があります。私ですか?、私は「陸っ針」(オカッパリ・陸・岸から釣る事)は遣ってましたが、そればっかりはとんと無調法なもので、ただひたすら、へら鮒に餌を遣る事に専念しておりました。

冗談はさておき、食べられない(原則、食べない)魚を釣って何が面白いの?とよく訊かれましたが、答えは一つ、「難しい!から」でした。へら鮒釣りが難しいのは、同好の士が集うクラブとか会に、「何々研究会」と「研究」を入れることからして肯けることだと思います。その難しさは、練り餌を鈎につけておく方法と、如何にその餌をスムースに水中へ拡散させるかの相反する行為を同時にしなければ釣れないことにあります。原則二本鈎で、一本には水中、それも狙ったタナ(へらの泳層・例えば、3m)までバラケ(寄せ餌)を沈め、じょじょに解かして拡散させ、もう一本には鈎と共にへら鮒が口へ吸い込むクワセ(餌)をつけておかなければなりません。6mもの竿を振り回して狙ったポイントへ放り込むんですから、柔らかいと「仕掛け」が水面へ届くまでに遠心力でどっかえ飛んでいってしまい、また届いてもタナまで沈む途中で解けて拡散してタナボケの原因となり、また硬いと団子状態のままで「へら」にそっぽを向かれて食ってくれません。現在は市販されている多種類の「餌の素」を、ブレンドしたりミックスしたりして、その時に「食ってくれる」ように試行錯誤しながら調整してやっています。

釣り方は、二本鈎(ハリス)を長短(例えば25cmと30cm)にして、上にバラケ餌、下にクワセ餌を付けて、へらが居る、或いは通るだろうタナで落ち着かせてアタリ(魚信)を待ちます。そのアタリを知るのが「バランスウキ」で、浮力の部分(孔雀の羽根、セル)と、アタリを見分ける部分(セルに色分けした目盛りを付けて)から出来ていて、餌の重量で沈み、釣師がセットした位置で一旦止まって(ナジム)、餌がじょじょに解けて小さくなるに従って浮き上がって、カラバリ(空鈎・餌が付いてない状態)を教えてくれます。

勿論、アタリを知る為の仕掛けですので、サワリ(へらの寄り)、アタリ、食い、をウキの動きで読んで、「食いアタリ」を的確に判断して瞬時にアワセ(竿先をあおって鈎をへらの口に引っ掛ける)れば、「ヤッタッ!」となります。しかし、このアタリが曲者で、チクッ!モゾ!ツーッ!と称される、極々小さなウキの動きを視認しなければ釣れません。その他に、食い上げと称する、ウキが浮き上がる動きもアタリとなる場合がありますし、滅多にありませんが、消し込み、といってウキの全てを水中へ引き込む場合もあります。ご存知かと思いますが、へら鮒釣りには、「返し」の無い縫い針を曲げて作ったような鈎を使います。これは、へらの口を傷めない為の工夫で、釣って放流、を繰り返し行える所為ですが、返しが無いということは、へらを折角鈎に掛けても、竿先と「へら」を結んでいる道糸を緩めてしまうと簡単に外れて(バラして)しまいますので、神経を使います。

へら鮒は、厳冬期以外は棲んでいる処を回遊していますので、イザ!釣ろう、となると、餌を打って(タナ付近へ)寄せることから始めますが、鈎付近に何時も解けた餌が浮遊していなければ、へらは直ぐ散ってしまいますので、厄介です。休む事なく、餌をタナへ届ける作業を続けて何んぼの釣りですので、右手に竿、左手には握り飯をなんてことは当たり前で、如何にそれを遣り続けるかが釣果に現れますので、始めたら最後、休むことなく、手返しを早くして「へら」を寄せ、また散らさないように努めることになります。

へら鮒釣りは、一年を通して楽しめますが、野釣りでは、春の産卵(ハタキ)前の「乗っ込み」と、秋の「落ち込み」前の「荒食い」を狙っての釣行で、「いい思い」をする事がままあります。
私の場合、仕事の関係で休日しか釣行できませんので、向こうの都合に合わせる事は殆ど出来ずに終わってしまいましたが、2度だけ偶然にも「乗っ込み」に行き合わせて、ほぼ「入れ食い」状態が続き、もう厭きた!と言うまでを楽しませて貰った事がありました。これから産卵をしようかという「へら」を釣るんですから酷い話ですが、傷めないようにフラシ(筒状の網)には容れずに、
そっ!と放したことは言うまでもありません。

「ハタキ」・産卵(卵を産み着ける動作が身体ごと叩きつけるようなことから)
「乗っ込み」・(大挙して産卵場所(岸寄りで、葦、ヨシ、水草が密生し浮遊物等がある処)付近へ集まる事)
「入れ食い」・(仕掛けを下ろすと同時に釣れてくること)
「落ち込み」・(越冬の為深場へ集まる事)
フラシ(筒状の網)

                 「へら鮒釣りヘロヘロ日記」

私の師匠は、妻の父、即ち義父であることは先にも書きましたが、その師匠に、道具一式に餌まで貸して貰っての初釣行でのオデコ(一匹も釣れないこと)は、後になって、「へら釣り」が何であるかが解かってきて初めて納得したものですが、それまでには随分と時間がかかったものです。

先ずは手始めにと、近所の釣堀で竿を出してみましたが、全くと言っていいほど釣れません。
「へら」が多過ぎて食いアタリがどの動きなのかが判別できず、合わせてもスレ(口以外に鈎が掛かる事・へら釣ではご法度です)ばかり、その上休日(日祭日)とあって釣師がイッパイで、両隣りの人との「お祭り」(仕掛けが絡む事ですがウキを提灯に見立ててこの呼び名が出来たようです)でひんしゅくを買ってしまい、腕を磨くどころか益々落ち込む始末。以来、師匠に教えを乞おうと約一年間、後を追って各釣り場を巡りながら、季節ごとの釣り方を含め少しづつですがコツを覚えていきました。

そしていよいよの独り立ち、練馬の自宅から日帰りで行ける範囲限定でしたが、アチコチの「釣り場」で経験を積みながらその面白さにはまるも、家族サービスだけはしっかりと行って、妻に「しょうがないねぇ」程度しか言われないよう努めたものです。

先にも書きましたが、「へら」は釣る事を楽しむ魚ですので、ある程度ですが、自分なりの釣ができるようになると、ただ釣ってるだけに飽きてしまって、生意気にも刺激が欲しくなってきました。恐る恐るでしたが義父に頼みこんで「釣り大会」への出場を打診してみました。と言っても、資格など要る筈も無く定員以内であれば、通常料金プラスアルファーを払っての自由参加です。

初体験は、埼玉の「道満管理釣り場」で定員200人、5時に現地集合で6時開始、3時の納竿までを一心不乱に、は皆さんで、その余りの事に私は戦意喪失。手を休める事なく餌を打ち続け「へら」を寄せては吊り上げてゆくその手際の良さに、感心するやら呆れるやら。当時私は未だ、初歩的な道具しか持っていませんでしたので、制限一杯の5.4m竿の放列に圧倒されてもいました。とうてい素人の出る幕ではないことを目の当りにして納得。それからは、皆さんの技術を盗もうと、あちらこちらにしゃがみ込んでは見せて貰いながら納竿を待ちました。優勝は15.4`、4枚で1`とすると、60数枚です。優勝トロフィーの輝きが遠くに霞んで見えたものでした。

それから奮闘すること約10年。がしかし、トロフィー、楯の類は計個、最高の成績は3位と言う惨々たるもので、「競技釣り会」出場の限界を自覚するところとなりました。言い訳じみて恐縮ですが、商売がら、平均して5時間ほどしか寝ない生活の上に、当日は2.3時間しか寝ないで出掛けてましたので、何時も睡眠不足状態で、神経を一日中尖らせたままに集中する事を強いられる競技釣りは、体力的に無理と諦めました。

でも、へら釣りを止めた訳ではありません。それからは、のんびりと自分のペースで出来る釣を、と数を競うのではなく、拓物(大型)を狙う釣りへと「遊び方」を変更しました。一口に拓物と言っても、自分で釣った「へら」を自分で魚拓に採っても、それは自分だけの記録でしかありません。
極言しますと買ってきた魚でも魚拓は採れるということです。何方がご覧になっても、そうと認めて頂く為には、釣った事を証明する「現認者」が必要となります。その為には「現認証明」をしてくれる釣り場へ行くことになります。ここでまたお師匠さんの出番です。連れて行ってくれました。

千葉県の「北部手賀沼」。後に、周辺の開発で生活雑排水が流れ込み、「日本一汚れた湖沼」として悪名を轟かせた大きな沼ですので皆さんの中にもご存知の方がいらっしゃることと思います。私が行き始めた当時は未だ汚れを知らず、2m程の底まで日の光が届いていましたので、水草が繁茂して絶好の釣り場となっていました。

ここでは、オダ(人工的に作った、へらの隠れ処、越冬場所)での釣りがメーンで、10月頃から越冬の為に集まってきた「巨べら」を狙って竿を出します。「舟宿」から「木製の舟」を借りて、釣れるだろうポイントへ曳き舟で連れて行って貰いますが、その後の移動は、カッパギ(櫂)を使って自分で行います。広大な沼ですので、漁師や釣師の手に一度も掛からずに大きく成長した「へら」が、沢山いるとの評判で我こそはという釣師が集まって来ます。
私が連れて行ってもらいその後定宿(泊りませんが)として利用した、北部手賀沼の「沼南園」で初めて見た沢山の「魚拓」は、私の「釣ってやろう」魂を強烈に揺さ振りました。いわゆる「巨べら」です。それまでに私が釣ったサイズは精々「尺べら」どまりでしたので、40cm以上と定められた「拓物」の雄姿は、初めて目にした事も手伝ってほんとうに驚きでした。見れば昨日揚がった物さへあります。「43.5cm」シッカリと「現認証明」の「署名」と「奥印」があります。こんなのが釣れるんですか?釣れるから連れてきたんだよ、と義父、年甲斐も無く胸の高鳴りを覚えたものでした。

      
                               北部手賀沼の曳き舟風景

事前に指示されていた、「巨べら」釣り用の道具は整えてきています。餌はマッシュポテトのみ、小魚、マブナ、鯉を呼び込んでしまう集魚材の類と、軽い麩系の餌も一切使わない事、タナは底、後はアタリを待つだけ。こう聴けば、誰だって「簡単だ!」と思います、いや!私だけだったかも知れませんが。小躍りするような気分で指示された釣り舟に道具と共に乗り込みました。4m程の浅い木の舟で底は平らです、舟で怖い横揺れが全くと言っていいほどありません。ポイントへ向かって、横向きで竿を出しますので、竿先が揺れず釣り易いだろうなと納得したものです。朝未だ明け切らぬ5時出舟、20杯ほどを二列にロープで繋いで、船外機を着けた舟がポイントまで曳いてくれます。放舟されたのは、沼のほぼ中心に設えられた「オダ場」の周囲、浮かせた竹で田の字状に囲んである水面に、沢山の枯れ木が頭を出しています。訊けば、その木の周囲に木の枝(オダ)、古タイヤ、廃舟等々が沈めて在るとのこと。

      
                         オダ場での釣り風景

・(へら鮒釣りでは、微妙なアタリに瞬時に合わせないと釣れませんので、
   ウキから竿の先端までの道糸をピンと張っておく必要がありますので、
   穂先を水中に沈め道糸が風の影響を受けないようにします。
   又舟が揺れると穂先が上下してウキが動き、アタリが視認出来ません)


漁師の網から逃れたり、越冬の為に集まってきた「巨べら」が、その中や周辺に身を寄せるように潜んでいる「へらの鼻っ面へ餌を落としてやれば食うから取り込みさへすればいいんだよ!」と有難いご指導を頂きましたが、その「取り込み」の難しいことを嫌になるほど味わい続けることになろうとは、浅はかでした。道糸1.5号(太さ1.5_)ハリス(鈎を結ぶテグス)は0.6号の意味を知ったのは、底どり(竿を出して底までの深さを測る作業)を始めた直後でした。仕掛けが沈んでいきません、そうだった!オダが在るんだ、へらにとっては隠れ家かもしれませんが、釣師にとっては障害物です。
「無理してオダに寄せないで少し離れた辺りから始めたら」とのご指導に、「だと釣れないんでしょ!」と返したら「仲間はずれでウロウロしてるのがいるよ!」ですって。よしッ!それならと竿を上げようとしますが引っ掛かってビクともしません、「地球でも釣ったのか〜!」と厳しいご冗談を。慎重にハリスを切って仕切り直し。道糸1.5号引くハリス二本の1.2号は0.3が残ります、これだと、ハリス二本が同時に引っ掛かっても道糸は切れない計算です。ハリスは30本以上を用意しろ、
の意味も含めて納得したものでした。

かくして、「巨べら」釣り初日は、釣りどころかまともに「仕掛け」をポイントに寄せられないままに終わってしまいました。私の周囲で竿を出していた皆さんは義父を含めて順調にあげて(釣って)いたようですが、いわゆる型物(魚拓サイズ40cm以上)は出なかったようでした。
但し翌日の「日刊スポーツ釣り欄」には、42.5cmを頭に9.6`を釣った人の名が、「竿頭」(その日に一番釣った人)として載っていましたので、あの広い釣り場の何処かで「いい思い」をなさった方がいらっしゃった事は間違いありません。

ここでまた、持ち前の「なにくそ魂」に火が着いた事は言うまでもありません。よ〜し!何としてでもあの「魚拓」を物にしてみせるぞ!と、妻には「他人様の魚拓」の写真を見せて、「入れ込む」事の許しを請うたものでした。

そして某日・朝3時起床、重い道具一式を車に積み込んで3時半出発、途中弁当屋さんで朝、昼二食分の食料とお酒等を仕入れ、北部手賀沼「沼南園」到着が5時少し前、「遊漁料込みの舟代金3.000円」を払い指示された舟に乗り込んで、5時丁度の引き舟で「オダ場」到着。と同時に思い思いのポイントへ向けて一目散に舟を漕ぎます。通い詰めてる常連さんは、釣れるポイントを知り尽くしているとかで、前日の情報などを参考にしてその日に入る処を決めているようで、その早さには、ただただあっ気にとられて見送ったものでした。

      
                     北部手賀沼・招南園五番オダの日の出

そんな新参者の私へ声をかけてくれたのが船頭さん、舟一杯分の隙間を指差して、あそこで遣ってみて、竿は12尺、水深は8尺も東へ向かって流れがあるから引っ掛かりに注意して、実績のあるポイントだから粘ってみて、と有難いご指導を。既に釣りを始めていた、両サイドの方に挨拶をして第一投です。タナは底、餌はマッシュポテトにグルテンを混ぜたもの、二本鈎共に底を這う状態にして、ウキが馴染んだところで切り(餌をハリから落とす)を繰り返して「へら」を誘います。
5.6投目で初アタリ、これは幸先いいぞと勇んだとたんにウキを消し込む程のアタリ、ビシッ!と合わせると手ごたえ充分の引きも、残念ながらマブナのそれ。そうです、ヘラとマブナでは引き方が全く違います、周りに引っ掛からないようにやっとのことで取り込んだ手賀沼での初獲物は、残念ながら21cm程のマブナでした、即放流。結局この日は、マブナと鯉の猛攻撃でヘラは8寸程のものを一枚だけという結果に終わりました。

私が、待望の「魚拓」を手にしたのは、通い始めた翌年の昭和58年1月23日でした。寒い日で豆炭アンカを股間に置いて手を温めながら、これもまた温めた「ワンカップ大関」をチビリチビリと遣りながらの「ヤッタッ!」でした。それまでに、泣き尺(拓寸40cmに届かぬ物、不思議な事に良く釣れました)は何枚も釣って、早く大きくなって来い!と、それこそ泣きの涙で放流してましたので、41.5cmの「へら」は神々しいまでに美しいものに見えました。巨べらとまでは言い難い寸法ですが、夢にまで見た「へらの魚拓」です。
掲示壁の末席に張り出されたのを見て、もう一度「ヤッタッ!」、いい歳をして、とお笑い下さい。
初めて見た女房が喜んでくれたのは勿論ですが、額装をして私の店に飾ることで、釣り好きのお客様との交流が出来たりして一石二鳥だったと自負しております。

   
         私が釣り上げた生涯最大のへら鮒(現認証明印が消えかかっています)

この手賀沼オダ場での巨べら釣りは、網漁が解禁になる10月10日から、巣離れして産卵に入る月初旬迄です。

その後は、これまた「巨べら」釣りで名を馳せた、「相模湖」への釣行となりました。
此処は相模川を堰き止めて造った人工のダム湖ですが、東京オリンピックの「カヌー」競技が開催された事でも有名です。
昼間は遊覧船や遊覧ボートが頻繁に行き来して波が立ちへら釣りには不向きですので、主に夜間に回遊してくるものを狙っての「ナイター釣り」が行われていました。沢山在る入り江や上流の浅場へも、産卵の為に集まる「巨ベラ」を物しようと沢山の釣師が訪れていました。
ここでの魚拓寸法は、尺4寸(42cm)と定められています。

私が相模湖でナイター釣りを始めた頃は、未だ電気ウキが無く、バッテリーライトで反射材を巻いたウキを照射してアタリを見るという、不自由な釣りでしたが、何時の頃からか小さな電池を仕込んだウキが開発されて、真っ暗闇の中でも集中して釣りを楽しむ事が出来るようになりました。
ここでも舟を使いますが、夜間のことですので夜露や不意の雨を避けるために、ビニールシートを使って屋根を葺き、舟中で脚を伸ばして仮眠が出来る状態にして、いざ出漁!です。
釣には「まずめを釣る」という言葉がありますが、へら鮒とて同じで、朝夕の「まずめ時」に大型が出る(釣れる)事が多いようです。現に私も42.6cmを朝の、45.5cmを夜のまずめ時に釣った経験をしています。その為には夕方4時頃にはポイントへ入り、翌朝は陽が高くなるまでは頑張る人が多いようでした。

           
                        相模湖での曳き船風景

ここでの釣りも、舟宿で舟(大型のボート)を借り、ポイント迄曳き舟をして貰いますが、静かに、が原則ですので付近までで、後は自分でここと決めたポイントへ静かに舟を漕ぎ入ります。
岸(陸)へ舳先を繋ぎ舟尾を湖面に向かって留めロープで固定してOK、いよいよ釣りの準備です

陽が落ちると、漆黒と言っていいほどの闇になる処が大部分です、舟中を照らすランタンを吊るし、ヘッドランプ(釣り糸、鈎等細かい物を見る用)をおでこに、釣道具一式と、自分の夕食と酒類などを、座ったままでも手の届く位置に置いて準備完了。
先ほどから始まった、へらのモジリ(確たる理由は不明ですが、水面上かスレスレに魚体を躍らせる行為)が盛んです、居るぞ!逸る気持ちを抑えて、念入りに餌を作り、モジリの様子からタナは底付近と睨んで、丈5(4.5m)の竿を出し深宙にウキをセットして完了。

このモジリを見せられては第一投から気が抜けません、しっかりと竿尻を握ってアタリを待ちます。ウキが馴染むと、トップが水面上10ミリほど出た状態で一旦静止してからじょじょに浮き上がってきます、餌が溶けて鈎から離れていきますのでその分軽くなっていくという寸法です。
餌が溶けて無くなる頃を見計らって仕掛けを上げ、餌を着けて竿を振り込む、の繰り返しです。
この作業を手返しと言いますが、へらを誘って集める為の大切な仕事で、これが面倒だからと怠ると、必然的に釣果は伸びません。

     
                      相模湖での釣り風景・皆さん真剣です

夕まずめを懸命に釣り、夜の帳が降りてくる頃となると、不思議と風が落ちて水面が凪ぎ、物音も遠くに追いやられたように静かになります。いよいよナイター釣りへの突入です。ウキを電池で光る物に替え、餌も鈎もちのいいものにしてアタリを待ちます。その頃になると人間様も口寂しさを覚えてきます。そこで、予ねて用意のワンカップ大関を一口グイッ!右手はしっかりと竿尻を握って、目はウキに集中ですから味わう暇などありません。

へらに餌を遣り、自分の口にも夜食を入れつつでの数時間、アタッた!食った!バラした!来た!と一喜一憂を繰り返しながら夜は更けていきます。休む間も無くアタリがあればいいんですが、夜釣りではそのような事はまずありません。アタリが遠退けば、必然的にウキに集中する神経は緩んできます、お酒など入っていますので尚更です。こんな時は無理は禁物、予ねて用意の防寒服を着て寝袋に入り、目覚ましを1.2時間にセットして昼寝ならぬ夜寝です。
板子一枚水の上、たとえ真夏でも結構冷えるものです。再開は眠い目を擦りながらとなりますがモジリがあったりアタリがきたりすると、とたんにシャキッとして竿を握る手にも力が入ります。

やがて、東の空が白んできて辺りの様子が見えてきます、水面から立ち上る靄が湖面を覆い始める頃になると、魚達の動きが活発になって、アチコチでモジリが始まります。ブラックバスの動きも激しくなって、水面をピョンピョン跳ねて逃げ惑う小魚を捕食しようと、背びれを水上に出すようにして追い廻していました。この騒ぎの最中が一番の釣れ時で、神経を集中してこの日最後の釣りを楽しんだものです。
やがて、時間切れでの終了、殆どが月曜の朝ですので6時迄には自宅へ戻らなければなりません。逆算して5時10分には出発中央高速をぶっ飛ばしてのご帰還です。後ろ髪を曳かれる思いですが、道具を纏め、付近の方々に挨拶をして、静かにその場を離れ船宿へと船を漕ぎます。大型が釣れた場合は、ここで係りの人に寸法の確認をして貰い、42cm以上あれば、有料で「魚拓」(写真・参照)に採ってくれますが、当日は無理ですので、宜しく!と預け、次回のご対面を楽しみに、帰宅へ向けてのアクセルを踏み込みました。

    

魚拓採りはへら鮒の体面についているヌルヌルを拭き取ってから墨を塗って和紙に写します
   出来るだけ迅速に行い、短時間で元の「棲みか」に戻してやることは言うまでもありません。


こうして色々と書いてきましたが、25年間を、家事その他の用事が無い休日(日祭)限定ながら、関東一円の釣り場へ10年、北部手賀沼と相模湖へは後の15年を通い続け、 その間45.5cmを頭に計18枚の魚拓を物して、竿頭も2回頂きスポーツ新聞の釣欄にも載ることが出来ました。
目標としていた「50cmのへら鮒」を釣ることなく竿を置いてしまった事を今でも悔やんではいますが、夜釣りの仮眠で、目覚ましアラームが聞こえず、気が付いたら日が昇っていたという大失態をやらかした事で、体力の限界を知り「へら鮒虐め」から足を洗う事ができました。

但し、止めた95年の夏には、早速、富士山へ女房と二人で登り、その後発病してドクターストップがかかった99年迄を、二回目の富士登山や、富士山や紅葉撮影の為の山登りに打ち込んだ事を思うと、今こうして、動けない、動かせない生活を送るようになる事を、予見する何かが身体に備わっていたのかも知れません。よく「お前はマグロ年生まれか」と言われてましたが、休む事を知らず、仕事に趣味にと動き回っていたんですから、言い得て妙ですね。
それにしてもです、「へら鮒釣」とはいったい私にとって何んだったんでしょうか?。
45.5cmの魚拓を前に考え込んでしまいました。

                              




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