闘病記・生きる力

                            ・2006/03 記・
 1998年9月、山梨県の本社ヶ丸(1,643m)山頂より、富士山の
雄姿をカメラに収めて下山途中、突然左右の脚の付け根と膝上が
痙攣しその場に倒れ込んだのが、自覚症状としては初めてのもの
でした。以来、左腕を中心に痙攣、ピクつきが始まり、脱力さえも加
わったところで、病院(神経内科)の門を叩くこととなりました。
 
 私は男性で現在68歳、60歳の時点で発病しましたので、既に
8年目に入っています。現在は球麻痺症状は皆無、呼吸も自覚的
には正常で、「血中酸素飽和度」も96と、大変恵まれた状態にい
ます、しかし身障一級、要介護度Dが示すように首から下の「身体」
は自身では殆どを動かせなくなっています。
 
 「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)聞くだにおぞましいこの病名を聴か
されたのは、某大学病院神経内科の某教授からでした。 事前に、
検査入院担当のお医者様二人から、「難しい病気のようですので、
奥さんと一緒に教授の話を聴いて下さい」、とのご指示があり「妻と
二人で来るように」を重く受け止めて、私なりの覚悟を胸にし、重〜い
診察室のドアを開けたものです。
 
 それは、こんな言葉で知らされました、「筋肉が衰えてゆき何れは
自分で身体を動かす事が出来なくなる病気です」「お気の毒ですが、
今のところ治療は出来ません」「世界中で治療技術の開発を急いで
いますのでそれまで頑張って下さい」覚悟はしてた積もりでしたのに、
面と向かっての告知は流石に応えました。続いて指示されたのが
「ソーシャルワーカーさんのところへ相談にいって下さい」。
 ここで聴いた言葉の衝撃度は、主治医からの告知に輪をかけたもので
私をダウンさせるには充分過ぎるものでした。
「身の周りを整理して下さい」「ローンがあったら慌てて返さないで
下さい」「生命保険は解約しないで下さい」既にお解かりかと思い
ますが、要は「近い将来死に値するような状態になる」と言う事でした。
 
 はい!そうですか、分かりました。実のところはちっとも分かっては
いませんでした。誰がこんな話信じますか、いや!信じたく無いと言った
方があたってると思います。万に一つも間違いは無いというの?世の中
に絶対なんて有るの?、散々悩んだ末に、ALS協会と某大学病院へ
他の専門家のご意見を訊いてみようと相談に出向きました。ところが、
返ってきた答えは「99.9%間違いないでしょう、今後の事をご家族と
相談なさって下さい」と私が期待したものとは全く違うものでした。
目の前が真っ暗とはこんな時のことを言うんでしょう、事ここに及んで
やっと辛い覚悟をするところとなりました、ジタバタするのは止そうと。
  
 それからは、文献その他で調べるだけでなく、二度三度と主治医
(教授)にお会いして、一般論ではなく、「私の病気」がどのようなもので、
今後どのように進行をしそうかまでをも訊くことで、貴重な指針を得る事
ができました。中でも、「治療」に関しては、今のところそれに繋がる方法
技術は見つかっていません。若しそのような事が在るとすれば、もうとっく
に私達医師が手掛けています。それが出来ていないということは、
現在は存在しないと言う事です。専門医師以外の方々から「治る」
「止まる」と奨められても決して手を出さないで下さい。中には危険と
思えるものもあります。特に筋肉の回復、増強を図ると云われる
リハビリの類は、その程度によっては折角の筋肉を壊してしまい二度と
回復することはありません、現在残っている筋肉を壊さないよう大事に
使って下さい。と「藁」をも掴もうとする私に手を差し伸べてくれました。  
 
とは言え、精神的なダメージは如何ともし難く、胃潰瘍を発症して後
10分遅れていれば・・・と医師に言わしめた大量吐血騒ぎを起こして
しまいました。救急車のベッドで揺られながら「このまま逝けたらなぁ〜」
と朦朧とした頭で考えていたことも事実です。人は、そう簡単には
死なない事を思い知らされた出来事でもありました。 
 
 皆様ご存知のとおり、この病気に罹った者が「死」(呼吸困難)と
向かい合った時、その後の「生き様」を自分で選択するという過酷
なまでの決断を迫られることとなります。なまじっかと言うとお叱りを
受けるかと思いますが、「人工呼吸器」という優れ物が身近となり
ましたので、患者本人、若しくは家族が「決断」をして装着することで、
その後の人生(呼吸)を「機器」に委ね生命を維持する事ができます。
 
 しかしながら、当然のこととして身の自由は阻害され24時間看護、
介護という壮絶とも言えるほどの生活を強いられることとなります。
そんな人生に果たして耐えることが出来るのか、と自問した時、
私が出した結論はNOでした。統計によりますと、70%の方が、
「人工呼吸器」装着を拒否して、病の為すがままに身を任せ、
ご自分の人生を全うされるとあります。
密かにですが、私も70%の中に入るんだと、自分自身の中で
決断し、今もその考え方は変わっていません。
 
 幸い(不幸中の)な事に、私の発症は左の腕から始まるという、
今思えば恵まれたものでした。それも丁度60歳の頃、世に言う
ところの定年です。小さな蕎麦屋を妻と二人で商う生活を、
30年間続けた挙句の発病、告知でした。
二人の子供を育て、社会に送り出す責任を果たした後の、云わば
「第三の人生」に足を踏み入れたばかりの、私にとってはホッと
一息ついてこれからの生活設計をと考えていた矢先の出来事です。
  
 65歳迄このまま働いて、その後は店を人様に委ね、伊豆辺りの
富士山の見える処へ移住して、畑を耕し、野菜ぐらいは自作を食べ、
天気のいい日は山歩きに出掛け、時には「へら鮒」釣りを楽しむ
生活が出来たらと・・・それこそ「夢」のような事を考えていました。
と言いますのは女房が私のこの計画には反対で、仕事をしながら
でもいまの東京に居たいと、自説を主張していましたので、
合意を得るのは無理だったように感じてはいました。
そのことからして、若し罹患しないで健常だったら・・・・・・
多分、今でも汗水たらして働いていたかもしれませんが。

 何れにしても発病の時点で私の夢は完全に消滅、変わって
見る事となったのは、見たくもない夢のようなドラマの主人公になる
ことでした。早い人は2〜3年で亡くなると引導を渡されています。
頭の中はそればかり、俺は死ぬ!俺は死ぬんだ!いやいや、
死なないで呼吸器に繋がれたまま寝たきりだ!、
明けても暮れても頭を離れません。 物に当たる、人に当たる、
持っていき場のないままに随分と荒れ狂いました。死に対する
恐怖から、逃れようともがいていたのかも知れません。そんな私を、
身近に居る妻がその標的となってくれ、私の理不尽な言いがかり
までをも、柔らかく受け止めてくれたのには心から感謝しています、
お陰で暴走することなく今に至ることが出来たものと思います。

 しかしながら「なったものはしょうがないでしょ、これも人生だと思って
トコトン付き合ってみたら。私も一緒に付き合うよ!」妻のこの言葉を
聞くことで俺は独りじゃあないんだということを改めて思い知ることと
なるんですが、そこがこのような過酷な病気に侵された者の哀しさです。
「女房を俺の道連れにすることになる」「何とかしなくっちゃあ」「俺が
居なくなれば・・・」と考え方が在らぬ方向へと傾注してゆきました。

 自分の事は自分で・・・と、あれほど恐れていた筈の「死」を密かに
覚悟するところとなりました。それからというもの、明けても暮れても、
寝ても覚めてもそればかり、どうして、何時、何処で。飛び降り?、
車?、排気ガスを引き込むビニールホースにガムテープ、練炭に
コンロを買い込んで・・・・・。不思議でした、こうと決めた頃から
気持ちが落ち着いてきて、仕事にも身が入るようになりました。
好きな仕事に打ち込むことで気を紛らわせていたのかも知れません。

 とはいえ、症状の進行は止めようがありません、沸騰した蕎麦釜や、
熱い天麩羅油に度々手を落とすようになり、また、蕎麦を打つ手にも
力が入らなくなって仕事への限界を知るところとなりました。 
店を何方かにお任せしよう、妻が安心して暮らせるのはそれしか
ありません。症状は日毎に悪化してゆきますので気ばかり焦ります。
その為には「私の商い」を習得して貰わなければなりません。
早速、自薦他薦で来られた人に付きっ切りで仕事を教えました。
病状の進行との競争です。ところが一人辞め又一人辞めして
一向に任せられるような人が育ってくれません、この時ほど今の
若者の不甲斐なさを思い知らされたことはありませんでした。 
 
 思うように動いてくれない手を騙し騙し使い、働き抜いた2年間で
すっかり体力、機能が落ちてしまいました。車は勿論、手が殆ど
使えなくなり排尿でさえ自分では出来なくなって妻の手を借りる始末、
お負けに脚も階段上りが出来なくなるほど萎えてしまいました。
もう駄目だ!、幸か不幸か「自死」を決行するだけの体力は既に
残っていません、こうなったら妻が言ってくれたように、ALSと共に
トコトン生きていこう!。後継者の目途がついたことも手伝ってか、
目の前が大きく開けたように感じたものです。

 若しあの頃直ぐにでも跡を継いでくれる人が見付かっていたら、
と考える時、今の自分はこの世に居なかったかも知れません、
皮肉な運命を強く感じるものです。 

 しかし、通院は月に一回、暖簾に腕押しとはこの事。
主治医は「リルテック50」(唯一のALSの薬)を処方して下さる
以外は全く何もしてくれません。世に「闘病」という言葉がありますが、
この病気に罹ったら最後、そいつと闘ってやっつけ、元の健康な
身体を取り戻すことは今のところ全く出来ません。まるでサンドバック
状態です。絶望感に苛まれる日々に、これではいけないと
思い付いたのが「闘病記」でした、何か書き遺すことが出来たらと。
 
 既に自分の手では字を書く事は出来なくなっていましたので、
それまで頑なに拒み続けていた「パソコン」を手にすることとし、
遠く離れ住む娘、息子に指導を乞いました。64歳の手習いです。
今こうして日々を有意義に過ごせているのは、このパソコンあって
の事と言っても決して過言ではありません。 今頃になって、
発病直後から強引とも言える程に「パソコン」を遣うよう奨めてくれた、
娘、息子にはほんとうに感謝しています。 

 取り敢えず文字を打ち込む術を習い、ポツンポツンと書き始めましたが、
発病当時を思い出しての事で一向に捗りません。そんな折、予てから
興味のあった「短歌」に纏めることを思い付きました。やってみよう!  
 そこで、 初めて詠んだ歌が、
    散りいそぐ桜を仰ぎ思ひゐき若葉の芽吹き我にこそあれ 
  (パッと咲いてパッと散る、潔いものの代名詞にも
   なっている桜が散る頃には、来年の花を育てるべく
    若葉が芽を吹いている、我にもこの生命力がほしいものだ)

 硬い「闘病記」と違い、歌にはその時々の心情までをも織り込む
ことが出来ます。それからというものタップリとある暇に任せ、
思い出しては詠み詠んでは思い出して、稚拙ながら
「闘病の徒然に」(歌集などと言えるような代物ではありません)
(当ホームページの「短歌のページ」をご覧下さい)を
纏めることができました。以来、闘病記などと大上段に構えないで、
日記を書くように一日一首を義務付けて今に至っています。

 昨年2月からは、当ホームページの「日ごと日ごとに」に毎日一首
以上をアップし続けています。自分だけの日記と違い、不特定多数の
方々に、ALSと共に暮らす私の生き様を知って頂くことで何らかの
お役に立てるのではと、内心ですが考えております。
 自分では動く事の出来ない身体ですが、頭は健常の状態を保ち
続けていますので、短歌を詠むという体操をすることで、衰えを少し
でも先送りしつつ、この憎っくき「ALS」を退治出来る日の来るまで、
妻を筆頭に、沢山の方々のお手をお借りしながら頑張っていこうと、
苦しいながらの覚悟をしています。

 最後となりましたが、私共夫婦が、思い悩み苦しんで全てを
投げ出したくなった頃に手を差し伸べて下さり、悩みや愚痴を
聴いて励ましてくれた保健所の保健師さん、並びに訪問看護
ステーションの看護師さんには、どのような言葉を並べても言い
尽くせない程、感謝しています。「二人だけで物事を解決しようと
しないでどのような事でも相談して下さい」に、どれだけ力付け
られた事か計り知れないものがあります。
加え、現在の私の「生活」を支えて下さっているヘルパーの皆さん!、
嫌な顔ひとつしないで明るく振舞ってくれて有難う!
心から感謝申し上げます。そして今後ともどうぞ宜しく。
              
ご精読、有難うございました。


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